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人生教習所
人の人生は、その周囲にある、たくさんの人々の人生の断片で成り立っている
だからこの瞬間、ぼくの人生は、たとえ彼らと直接触れ合わなくても、彼らの人生の断片で世界が成り立っている。
元ヤクザ、引きこもりの東大生、対人恐怖症の女性フリーライターなど、人生『NO・WAY』の男女たちが、自らの再起を賭けて、小笠原で行われる怪しげな自己啓発セミナーに参加する。とは言っても、暗い内容ではありません(笑)。間抜けな登場人物たちが滑ったり転んだりを繰り返しながら、それでも少しづつ自らの人生に対して前向きになっていく、というお話です。
化粧もしない。服も地味。美人でもない戸籍係の女にどうしようもなく魅かれていく3人の男。その理由は? 男たちの視点を通して、女の正体が徐々に焙り出される。人間の繋がりの意味を問う挑戦作。
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まあ、たいがいの人間はみなそれぞれ、自分の理想とする生活を手に入れるために懸命に日々を頑張るわけですが、それでも自分の理想どおりに行く生活なんて、まずはあり得ませんよね。
実は、何を言う、この私もそうであります(苦笑)。
たしかに自ら望んで作家にはなったものの、日々部屋に篭ってチマチマと文字を書く辛気臭い生活を続けておりますと(あぁ、おれの人生、ホントにこれでいいんだろうか)という思いが、溜息と共にしばしば脳裏に浮かびます。(おれの人生、もっと違う生き方もあったんじゃなかろうか)などという疑念もしきりです。
ですが、本当は自分でも分かっているのですよね。
それ以前にあった様々な人生の岐路で、意識的にしろ無意識にしろ、自分でチョイスしてきて、その結果として今の自分がある、と。
だからまあ、ある意味自分のチョイスした通りになっている、とも言えるのでしょう。
ただ、表題に示したとおり、それは自分の人生であっても、自分だけの人生ではない、とも最近よく感じます。縁起、とも言えるでしょうね。
ごめんなさい。なんかよく分からない話になりましたね。
ここ四、五年は、来たるべき歴史小説の準備のために仏教書ばかりを読み漁っているために、こんな禅問答みたいなことを書いてしまいました。
(個人的に、歴史小説を書くためには、たとえそれが戦国時代の武将の話であれ、原始仏教から中世日本仏教までの『生き死に』の思想を押さえるのは必須だと思っています。)
ただ、この小説を書いているときも、ときおりふっとそんなことを思い出しながら書いていました。
内容は、元ヤクザ、引きこもりの東大生、対人恐怖症の女性フリーライターなど、人生『NO・WAY』の男女たちが(苦笑)、自らの再起を賭けて、小笠原で行われる怪しげな自己啓発セミナーに参加するというものです。とは言っても、暗い内容ではありません。間抜けな登場人物たちが陽気に滑ったり転んだりを繰り返しながら、それでも少しずつ自らの人生に対して前向きになっていく、というお話です。
気が向けば読んで見てください。